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みそかつ漫談

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雁道

以前、三遊亭円丈さんが執筆された書籍『雁道−名古屋禁断の書−』におきまして、昭和30年代の矢場とんのエピソードが非常にリアルで面白く表現されていますので、ご紹介させていただきます。

 名古屋に住んでた中年のおじさんならきっと覚えているでしょう。矢場町にあった串カツ屋さん。これを矢場とんと言ったのです。昭和30年代この矢場とんは人気があった。店の看板には丸々と太った大きなブタが書いてあり、子供の頃あれを見ると、「あー、このブタが喰えるんだなァ」と急にうれしくなりました。この矢場とんの肉は、今から思えば大した肉ではありませんでしたが、当時の串カツの肉!それはひどいもんでした。固くてなかなかかめない!肉というより、古タイヤの角切り状の固形物といった方が正しいでしょう。その当時を思えば矢場とんの肉は、立派なもんでした。とにかくかめるし、更に肉だと確認は出来るし、その上チャンとブタの味がしたんです。正に史上最高の串かつだったのです。

 矢場とんの人気の秘密は、肉よりもそれを包んでいるフワフワとした厚い皮です。ふくらし粉が入っててぶあーっとふくらがっとったのです!イヤ、失礼!思わずとふくらがっとったと名古屋弁で書いてしまいました。そう、正しくはふくらんでいた。一本で二本分ふくらんでいた!うれしい。この2本分ふくらんでいたのがとてもうれしかったのです。いつもより倍ごはんが喰える!しかも父は言いました。「皮のうどん粉に卵がは入っとるだろ!そりゃ他の店とはゼーンゼン違うわ」 この卵!今でこそ落ち目の食べ物ですが当時はゼイタクの極致のような喰いモンでした。だから昭和30年代これ以上の料理はこの世に存在しなかったのです。順位をつければ、 「一位 ダントツの矢場とん 二位 幸せのオニまんじゅう 三位 哀愁ノみたらしダンゴ」とこうなります。 この矢場とん我が家では時々おかずとして食卓にのぼりました。時々と書きましたが、本当は時・・・・・々でめったなことでは食べれません。年に3、4回といったところです。 ある晴れ渡った5月の午後3時頃、父と母は何やらヒシヒシ話、「フンフン、ほーかね。・・・フン、分かった。そうしよマイ!」と首脳会議で決定が下りる。そして午後4時頃になって子供が集まってたりすると父がやや胸をそりぎみに、「今日は矢場とんにしたで!」と言い放つのです。この”矢場とんにしたで!”のあと、”どーだ、まいったか!”と言わんばかりの自信と威厳に満ちた父でした。それを聞いた時!”エッ、あの一本で二本分の矢場とんを喰える!、しかも何時もの割り当てが各自二本ずつ!その二本分の矢場とんを二本だから四本分食える、バンザーイ!”と思わず叫びたくなりました。  午後4時半頃になるとこの矢場とんを買いに行く代表選手が選ばれる。大抵は姉が行くことが多かった。

「アケミ!矢場とん、買ってきゃァ」
「ええョ!ほんで何本買うのォ?」


「十本に決まっとるがね!」とメンミツな打合せが行われ、この十本の矢場とんを入れる為に大きめの弁当箱二個をフロシキに包み、電車賃と十本分の金を渡されて出かけて行くのです。 「ええか、おつり40円貰えるでチャンともらわなかんョ!ごはんたいて待っとるで早うかえってこなあかんョ!」

「そんなもん分かっとるでええわ」
「そんじゃ気ィつけて行ってりゃ!」
と家族全員がやや興奮気味で姉を送り出すのです。この姉の帰りが少しでも遅れたりすると、「今日は矢場とん、定休日と違うか?ええ?やっとる?やに遅いぎゃァ。電車にでもひかれとれせんか!!」と専ら姉の体より、到着しない矢場とんのことをみんな心配していました。

そして無事に姉と矢場とんが到着するとその日の食事はゴーカなゴーカな矢場とんのおかず、家族の一人一人が満ち足りた幸せそうな顔をして心ゆくまで一本で二本分の矢場とん食べるのでした。めでたし、めでたし。「雁道−名古屋禁断の書−」 1987年 海越出版社 より抜粋注)現在の矢場とんの串かつは、本文の昭和30年当初のような一本で二本分の太さではありません。ご了承下さい。